戦後まもなくの日本のゴルフ事情とは?
戦前は、イギリス人・グルーム氏の尽力もあり、ゴルフがスポーツとして根付きつつありましたが、「スポーツ」としてより一層、身近なものにしてくれたのがアメリカでした。
しかし、第二次大戦中は野球でさえも用語が英語禁止(例えば、ストライクは"正球"、ボールは"悪球"など)となりましたので、ゴルフも"打球"(以前ご紹介した日本古来の「打毬」と似ていますね)と呼ばれるようになりました。
でもアメリカとかゴルフが悪いのでなく、その当時の日本軍がそれだけ徹底していたということでしょう。
他にも、
・バンカー=砂窪
・フェアウェイ=芝地
・アイアン=金
・ドライバー=木の一番
・パター=短杖
といった具合です。
ゴルフ場も当然のことながら、日本軍に没収・買い上げられたりしてグライダーや飛行機の訓練場や農地となりました。
終戦後は、アメリカはゴルフには寛大でした。
GHQ(連合軍総司令部)の日本統治が始まると、アメリカの方々はゴルフをしたくてたまらなかったようです。
日本に乗り込んできた当初、基地や軍司令部内の敷地にミニコースや練習場を作っていたようですが、それでは物足りず、「接収」という形でゴルフ場を押さえていきました。
中には、日本人のプレーを認めないところもあったようですが、九州などではブルドーザーを持ち込み、演習の一環と称してコースの修復を行ったりしていたようです。
九州の名門コース、福岡・古賀カントリークラブや福岡ゴルフ倶楽部・和白コースなどはこうして戦後の復興をアメリカの支援で行ったそうです。
第二次大戦中、南太平洋の島々を占領した日本軍が滑走路を作るのに3ヶ月を要したのに、アメリカは3日で作ったと言われました。日本軍はすべて手作業で現地の住民を動員して行いましたが、アメリカ軍はブルドーザーを使って土木工事をしていました。「これじゃ、アメリカには勝てないよ!」と皆口々に言っていたようです。
また、北海道でも同様の話があります。日本最北端の地、稚内に1964年、稚内カントリークラブが誕生しています。
ここはソ連領と接している最前線基地だったため、1972年までアメリカ軍は進駐していました。当時のアメリカ軍・空軍司令官から稚内市長のもとにこんな要請がありました。
「稚内のアメリカ軍人は自然条件その他を考慮すると非常に悪条件下で勤務しています。ゴルフを楽しませてやりたいが、アメリカ軍がゴルフ場を造るわけにはいかない。費用については相応分の負担をするので、そちらで作ってもらえないか?
1964年9月に開場、アメリカ軍も約束どおり2万5千ドル(900万円)を振り込んでくれました。が、司令官の熱意とは裏腹にアメリカ兵の来場は少なく、72年アメリカ軍が撤退するときに会員分の預託金600万円を寄付してくれ、嵐のように去っていったそうです。稚内カントリークラブはアメリカ軍の「置き土産」の形となったわけです。
こうしてみると、アメリカは単に日本を統治していたのではなく、素晴らしい文化を日本に根付かせる一端を担ったといっても、過言ではないかもしれませんね。
戦争と言う過酷な経験を経ても、スポーツ精神、スポーツの魅力として、ゴルフが発展したのです。
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